U,Tさん
今振り返ってみると、
初めは主人が私に
「パソコンを習ってくれ」といったことでした。
そのうち夜階段で案に階段で頭を抱えている姿をちょくちょく見るようになりました。-主人の死後、手帖に“一生けん命考え事をしようとするけれど、焦点が一つに定まらず、頭がボーっとしてしまう。何もしたくなく、力が出ないーと記していました。
二人で外出すると、階段で転ぶようになりました。
また、楽しみで通っていた囲碁の会から「もう少しやさしい会を紹介するからこの会をやめてほしい」といわれ、ひどく落ち込んでいました。
私は、主治医の若先生に「認知症では?」と相談に行きましたが
「ご主人は頑固なだけで、認知症ではない」といわれほっと一安心しました。
一年後に色々おかしい事が多くなり、大先生に相談しましたら
「認知症だよ」といわれました。
あわてて駅前の精神科の医院を紹介していただき、二人で受診しました。
受診後受診は、
「足し算も引き算もできているんだから、大したことはないんだよ」といっていました。
しかし、その後の受診を拒み、私が月一回主人の状況を説明し、薬をもらって帰る事が続きました。
クスリは気が進まないと、飲まない日もありました。
そんな折に区の「認知症」についての講演会があり、講演後先生が個別相談に乗ってくださいました。
先生の病院が設備が整っていましたので、診察を希望しましたが、受診には8カ月待ちとのことであきらめました。
そこで以前胆石と胆管、腎臓結石の手術を受けた大学病院に電話しました。
幸いキャンセルがあるとのことで、検査と診察を受けました。
「相当前から徐々に進んでいましたね」といわれました。
以前は、認知症の言葉はわかっていましたが、夫の言葉に傷つけられてケンカをずいぶんしました。
「もうやってられない」と頭にきたりしました。
新聞の広告で見た認知症の分厚い本を買い、読んで初めて病気を理解し、これからは、彼の欲する事を、希望通りかなえてやろうと思いました。
「カメラを買うので、池袋に下見に行ってくる」と午後3時過ぎに家を出て、なかなか帰らず深夜11時過ぎに
「高島平にいるので迎えに来て」と電話がありタクシーで迎えに行きました。
高島平はいぜん住んでいたところでした。
また、保谷からタクシーで石神井台の方に行ってしまい、4時間も行方が分からず、交番に頼んでパトカーで家まで連れて来ていただいたこともありました。」
そこで、手帖にタクシーに乗るときの住所と道順を書いておきました。
そうしたら、今度は道に停まっていた営業車の運転手さんに声をかけ、手帖を見せて、
「この住所まで乗せて行ってほしい」と頼んだそうです。
その方は親切に家まで送ってくださいました。
別の時は、バイクの人に同じ依頼をしたそうで、その方から電話があり、途中まで迎えに行きました。
区の補助を受けて借りたGPS追跡装置はベルトにつけるようになっていましたが、つけるのをいやがり、そっと気づかないようにズボンのポケットに入れました。
主人は外出すると必ず私が後をつけてくると思いこみ、途中で立ち止まって私が追い付くのを待って一緒に帰ったりしました。
しかし、私が2階のベランダで洗濯物を干していたり、トイレに入っているときに急に家を出られると(玄関の音で出ていくのはわかるのですが)どの道を行ったのかわからず困りました。
セコムの人は、現在の居場所の番地を教えてくれましたが、それではわからず、公園ですか、橋ですか、とたずねると地図を調べて教えてくれますが、わかりにくい事もありました。
発見した時は自動販売機で大好きなコーヒーを買って飲ませたり、コンビニの前の時は好きな物を買って食べさせて家に帰りました。
一番くたびれたのは、
「保谷駅に向かっています」といわら駅に着いたところ
「大泉学園駅にいます」といわれ、自転車で大泉学園駅に行きましたが、どこにもいません。
交番でも「気づかなかった」といわれました。
再び問い合わせると、「どうやらタクシーに乗って富士街道の交差点の所にいます」との返事でした。
暗い、バスやトラックの通る道を自転車をこいでいると
「大泉学園の方へ向っています。セコムでも追いかけますから、ゆめりあの前で待ち合わせましょう。」といわれました。
やっとの思いでゆめりあに着くと
「どうも家の方に向かっています。」
急いで家に帰りました。
今回は特別にセコムさんにバイクで追跡をお願いしました。
「別料金をいただきます」との事でしたが、今回は自分で自宅に帰りついていましたので、料金はいただきません」といわれました。
夕方から始まって8時過ぎまでの第追跡でした。
そのうち、足が弱くなり、長く歩けなくなりました。
車いすを借用し、一日一回は必ず外出、散歩をしました。
公園の柳の下のお気に入りのベンチに腰掛け、いろいろとつまらない事を話し合いました。
夜11時過ぎの散歩は、結構車が通るのですが、朝4時半頃は全く車も通らず、とても怖かったです。
最後は誤嚥による肺炎で2カ月の入院、手術もしましたが亡くなりました。
今はどんなことがあっても生きていてほしかったと思っています。